自己紹介

基本情報

・Arcobloom 代表
・笹木 弓
・1975年12月3日生まれ

≪実績≫
現在も大女優大地真央さんや一流モデルを担当する

ヘアメイク界の第一人者嶋田ちあき氏。

嶋田ちあき氏が学校長を務める代官山にある
メイクアップスクールにてメイクを学び

墨田区錦糸町にあるトレスにて

ヘアセット技術を学ぶ

美容外科・美容部員・婚礼や成人前撮り撮影

ブライダル業界・舞台「八王子ゾンビーズ」
ヘアメイク進行

嶋田ちあきメイクアップアカデミーで
メイク技術を取得。
美容部員歴は3年
ヘアメイクとしては20年です。

5000人以上のヘアメイク経験を持つ

嶋田ちあきメイクアップアカデミー卒業
美容師免許保持
コスメコンシェルジュ取得
SDGsビジネスエデュケーター認定講座修了

≪現在の活動≫

◯成人式や婚礼の前撮り
◯広告などの撮影の現場
◯嶋田ちあき先生のアシスタント対応
◯個人様のヘアメイク

◎ミススプラナショナルコンテスト日本大会ヘアメイク
◎ベストボディジャパン出場者のヘアメイク
◎舞台「八王子ゾンビーズ」ヘアメイク進行

札幌の花屋さんがお花に興味を持ってもらう為に始めた、
生花を使い撮影をする【HANANINGEN】
と言うプロジェクト。

そのライセンス保持者です。関連の別プロジェクトにて
花の定期便を通じ、モンゴルに植樹活動。

◎ Japan Kids Fashion Week 2022
◎平本式 モデル撮影 ヘアメイク担当
◎ TOKYO FASHION AWARD 2023
【TENDER PERSON】のランウェイ装花

そもそも私ってどんな人なのか?

これまでの人生はこちら

幼少期~小学生:自立=自由。母の役に立ちたかったのが人生の目覚め


私は、6人家族で4人兄弟の末っ子として
北海道の夕張市という
昔は炭鉱で栄えた田舎の町に生まれました。

お洒落や美容には全く縁遠い田舎です。
また私の家庭は父は昔炭鉱で働いてましたが、
父は振動病という病気で働けず、
母が働きに出るのが当たり前の家で育ちました。

母の姿を見て、女性が働くことに関して違和感はなく
むしろ早く大人になって働きたい憧れがありました。

私はとにかく小さな頃から自立心旺盛で、
他の子が保育園に親御さんが迎えに来てくれるなか、

母親に聞いたところ迎えに来なくていいと
4歳の時にいい、1人で保育園へ行くような子供でした。

帰りに寄り道して、
虫を捕まえたり公園でのんびりしてる時もあれば、
ゆっくり本を読むのも好きだった。

その根底には
4人兄姉で自分の部屋もないし、
自宅には病気で働けない父がいつも家にいたため

自分の自由な時間を確保したかったのです。

自由な時間への欲求はさらに
保育園の往復は1人で出来るよ。といったのを皮切りに

私は当時近所の床屋さんへも散髪代を貰い、
お金を握りしめて1人で行き始め
きちんとやりたい髪型のオーダーまでしてました。

保育園のいつもの道なら知ってるし自分で歩ける。
床屋さんくらい忙しい母についてきて貰わなくても行ける。

1人でやれる!!大人になった気分!と幼き心ながらに思ってました

自立こそ自分の自由を選択できる道
と思って過ごしていました。

また欲しいものも大きくなったら自分で買いなさい、
と言われて育ち
そんな家庭事情は窮屈さも生みました。

細やかながらの反骨精神で、
行きたい場所に自分の意志で行くことに、
大変楽しみを覚えてました。

そして、母が家事をする際にご飯茶碗を並べるなど
ちょっとした事を言われて手伝うと

「有難う」と言って喜んでくれました。

その事で嬉しくなり
部屋の掃除の手伝いや茶わん洗いなども
積極的に出来るようになろうとお手伝いを頑張り始めます。

次第に「仕事に行くから片付けお願いね」と
任せてくれるようになり、俄然やる気が出て来ました。

正直今でも家事が好きなわけではないのですが、

当時は
「母の役に立てて、喜んでもらえた」そう感じてました。

何かを覚えてやれるようになり、
その事で人の役に立て感謝される事が嬉しい

子供の頃は決して多くの事が出来たわけではないのですが、

覚える事の楽しさ、
何より母が喜んでくれたことで自信にもなり
喜びにもなりました。

幼少期から自立し自由になりたくて
1人行動を好んでしていたこと。

努力と成長をした先に、感謝や私自身の喜びがある事を
体験していたからこそ、
それが人生の大きな根源となったきっかけでした。

小学生:ヘアメイクになるきっかけはマンガ

年齢の離れている兄や姉のおかげで、
同世代の子よりも大人のカルチャーが家にあふれていました。

そんな環境のなかで育った私ですが、夢のきっかけとなった
9歳年の離れた姉がよく読んでいた
「別冊フレンド」という月刊漫画誌。

そこに当時連載していた「Charming」(小野弥夢 著)
というマンガと出会うことになります。

物語はトップヘアメイクアーティストの男性と、
10代のトップモデルを
目指すことになる女の子の恋愛サクセスストーリー。

主人公の女の子が
メイクアップアーティストの男性に恋をして、
最後はトップモデルにまで登りつめますが

実は最終的にはその立場を捨てて、
自分の本当の幸せを見出す。

そんなストーリーなのでした。

メイクアップアーティストという仕事が
世の中にあることを当時の私はマンガを通じて初めて知ったのです。

作中でキーアイテムとして登場する「シマリスの筆」
と言うメイクブラシは

まるで魔法のアイテムのように思えました。

あの魔法のアイテムを使えるようになりたい!!と思った私は

【ヘアメイクになろう】と決めたのです。

物語の最初で、
主人公は撮影現場でメイクアップアーティストの男性に
初めて会いった時

人に言われて伸ばした続けた髪の毛を、
「似合わないから切りなよ」と
指摘されるシーンがあります。

髪を切る事で今までの自分で居られなくなることに、
始めは怖くて切れないと否定する主人公ですが

「勇気を出して自分を変えるとチャンスが来る」

とヘアメイクの男性から言われて
決心をして自分を変えるためにばっさりと切ります。

今までにない、より素敵な自分に出会った主人公は、

初めて納得がいく仕事が出来、自分に自信が持てるようになり
トップモデルになるための様々なチャレンジをして、
目標へと駆け上がります。

人の見た目を変える事が出来るだけじゃなく、
人の生き方も変える事ができるのだ。

想像を膨らませながら、何度も読みました。

そういえば、
私も床屋さんに行った後髪を切ってウキウキした。

いつも忙しい母は、
美容室に行った後は嬉しそうに機嫌がよかった。

道具があり自分がいて綺麗に出来れば、
人を喜ばせる事が出来る仕事。

それがヘアメイクと言う仕事との出会いであり、
自分の夢の始まりにもなりました。

中学校~高校卒業:親・兄姉と違う道へ進みたい

生まれてから穏やかな田舎で育ちで、家庭も裕福ではありません。
友達も好きだし家族も大切だった。

ただ学生時代は毎日退屈でした。

高校生からレストランやコンビニでバイトを始めた際に
学校にいる時間より、バイトしてる時間が楽しくなりました。

大人になってほしいものは自分で買いなさい。
うちはうち、他所は他所。と言われて育ったため、

自分で働いたお金で欲しいものを自由に買えることに喜びを
感じていたからです。

本当はずっと早く学生時代が終わらないかなと、
毎日毎日実は思っていました。

田舎の狭い世界から抜けて、仕事を持ち
自立をして自由になるには早く大人になるしかない。

そして進路を決める年齢なっても、
ヘアメイクになる気持ちは
変わることはありませんでした。

理由はマンガの影響もありました。

もう1つの理由に、私自身は何かを学ぶことに対し、
両親から1度も反対を受けたことはないのですが

なぜか姉に対しては両親は厳しく、
特に父と姉は進路を決める年頃になるとほぼ毎日揉めていて

その光景を見ていて悲しい気持ちになった記憶がありました。

姉は本来は保育士になりたかったのを、
長い目をみて看護師になれと父が言っていたのを
記憶しています。

当時はとにかく親子喧嘩を見ていたせいで
自分もやりたい事が出来ないのだけは嫌だなと思いました。

その後家族が福祉と医療系の仕事をしていた事で、
家族が働く姿を見て
職業の大変さを家庭内で感じていました。

医療の仕事は本当に凄い素晴らしい仕事です。

ただ私には向いていないし、
同じ道は行かないと言う決心の方が大きくなり

ずっとやりたかったヘアメイクになる!

その夢を叶えようと思いました。
当時はヘアメイクだけを教える学校はなく、
近道は美容学校へ行くことでした。

母親が「学校だけは道内の学校にして!!」と言う願いと引き換えに
美容学校へ行き、美容の道へと進み始める事となります

19歳~20歳:美容業界へ入り離れる


高校卒業後に専門学校へ行き、全寮制の学校で1年過ごしたのち
就職し社会人になりました。

大型店舗への配属が決まって、
美容師インターンとして朝から夜遅く毎日。

私たちの時代は今のように外部講習が充実していて、
ましてや動画講習まであるような至れりつくせりな環境ではなく

見て覚えるという「ザ・修行!!」という時代でした。

ある日社内コンテストがあった際、
社員の半分の人が会社に泊まり込みをして
コンテストに向けての最後の追い込みで練習していました。

中々うまく出来ず、
先輩である男性の主任さんに技術の事で質問しました。

そこで、なんと無視されました。

それから、何度聞いても無視されたので
「そんなに私の事嫌いですか!!」
と若さの勢いで言った記憶があります。

その後も、先輩たちを見て日々感じていたのは、
外から見たらかっこいい
仕事をしているように映りますが、

それまでには出来ない時間が誰にでもあり、
自己鍛錬をしたのちにお客様に接客出来るのです。

色々な不満を感じてましたが
やはり1つでも技術が出来るようにならないと・・と思い直し
自分が恥ずかしくなりました。

その後、無視された悔しさから猛烈に練習をしました。

悔しさがエネルギーになったんです。

早く出来るようになりたい。
出来る事が増えるともっと自由に仕事の幅も創作も広がる。
と思いながら頑張る毎日です。

そして、段々とですが夜中まで練習し、朝も早く出勤し練習する。
理不尽な先輩も確かにいました。

練習は辛いけど嫌いじゃない。
なんとか頑張りたいと思っても、給料は12万。

生活で精一杯で、お洒落も出来ないし、遊びたい年頃でしたから
色々なストレスが溜まりました。

時間もない・お金もない。
こんな思いをするために美容の仕事してるわけではない

と思ってる矢先に
子宮内膜症が酷くなったことで
立ち仕事がかなり困難な状況となり退職することとなります

20歳~24歳:お金の為だけに働いても幸せじゃなかった

病気が治った後、夢に描いた美容の仕事を辞めてしまい、
一旦気力も目標もなくなった気がしてました。

将来のビジョンより、
その日が楽しければいいやと朝まで遊んだりし始めます。

販売の仕事をしたり、バイトしながら生活をしましたが
12万の給料への不満から、その反動でホステスを始めます。

貯金することなく、飲み代へ使い、
昼と夜が逆転する酷い生活となりました。

何も考えずに飲み歩く生活です。
そんなことを毎日のようにしていたある日。

夕張にいた母が、
55歳になった頃介護福祉士の資格取得の勉強を始めました。

夜勤もこなし家庭の事もしながらスクーリングをし
母は必死で勉強をし合格します。

最終的には資格を取ったことで72歳迄仕事をしてました。

また当時、4歳離れた兄の借金があり、
母の心情を知っていた私は
兄の借金の返済と、母の学費の捻出を協力するようになりました。

お金が欲しくて始めた夜の仕事が、この頃から自分のためではなく
家族のための仕事になってしまいます。

お金は必要でしたが、
そのモチベーションだけではやりがいが見つけられず、

心の底から楽しく幸せを感じない毎日でした。
正直いつも飲みたいわけではないし、
早く帰って寝たいという自分勝手な理由もあります。

一方で心のどこかでは
ヘアメイクになりたかったんだ。美容の世界へ帰らなきゃ

どうしたらいいのかなと、悩みながら過ごすこともありました。

自分の事が何もできていないと感じながら、
母のスキルアップの支援。

そしてまず兄の借金の心配をなくすことが
いつの間にか優先順位となり

時間が過ぎていく毎日となります。

25歳~30歳:母と言う手本がいてメイクスクールへ行く決心をする

25歳以降、やりがいは感じなくても
生活のために先立つものは必要でした。

ただし、いずれは夜の仕事を辞めようと思い、
昼と夜で掛け持ちを
初めて夜はアルバイト程度にしながら働きました。

当時昼は美容外科で働き始め、
同僚にも恵まれて楽しく働いていました。

30歳目前になった私は、
その後のキャリアを真剣に考え始めます。

もう一度自分の気持ちを確認した時に、
今後は結局何をやって生きていきたいか

結婚か?出産もしたいのか?自問自答したけどそこじゃない。

キャリアアップしていくならどうするかを考えます。

色々な仕事をしてみたけど、
学校まで行ったのに辞めてしまった

美容の仕事を思い出しながら考えます。

人のお金でお酒や食事をごちそうしてもらう
夜の世界の生活は贅沢な事です。

でも自分の気持ちが毎日つまらないと思いながら仕事をしてきて

心の中には小学校の時に決心した思いが
消えることがなかったことでした。

大きなきっかけは母が資格取得をするにあたり、
働きながら家庭の事もして年齢関係なくチャレンジしていた姿を
そばでずっと見てきたことで、意識が変わりました。

いいお手本がいた私は、私にも絶対できる!!
やっぱりメイクがやりたいと改めて思い返します。

その頃には新社会人になったころと違い、
札幌でもメイクスクールのでき始めたころで色々考慮した結果

メイクスクールへ通うこととなります。

30歳~35歳:35歳限界説って何なの?

メイクスクールに通い始めてから先生の紹介で、
呉服屋で成人式の前撮り撮影した際の
アルバム写真の販売のアルバイトをしました。

撮影の現場は楽しかったし、
ヘアメイクの現場も見る事ができ、その後新店舗の立ち上げ時は、
カメラマンとしても仕事することとなりました。

仕事自体は楽しくスクールに通いながらアルバイトを始めて、
その後も辞めることなく続けましたが、

私はヘアメイクがしたくて学校へ行ったことは
忘れたわけではありません。

当時どうしたらヘアメイクの仕事につながるか悩み
周りのヘアメイクさんにこんな質問を投げかけました

「皆さんはどのような経緯で仕事をいただいてますか」
と聞くと決まってこう言われました

「たまたまご縁で仕事いただくようになってそうなった」

当時道筋をしっかり仰るヘアメイクさんに会ったことがなく、
すごく苛立ちにも似た気持ちに数えきれないほどなりました。

撮影現場には携わっているにも関わらず、
ヘアメイクの仕事に直結するような事がない。

キャリア形成が出来ないままになっている
焦りもありました。

ある日の事。

契約していた会社の上司と、
私は一息つきながら仕事の話をしていました。

ヘアメイクの仕事を何かしていきたいが、
今の契約状況でどう進めていくか悩んでいると話した際、

その時に「35歳限界説」の話を懇々とされました。

当時転職に際しての年齢の壁が
「35歳から」と定義されてました。

当時私はちょうど35歳です。その上司は34歳。

年齢的な事や他にも色んな事を言われたのは覚えています。

そこで・・・負けず嫌いな性格が顔を出し始めました。

「年齢で何でも制限をするなんて、そもそも考えがおかしい!!」
と感じながらも

頭にきたことや苛立ちの一番の原因は、悔しかったんです。

ヘアメイクの現場経験のスキルがなかったからです。

キャリア形成は同じ年齢の方に比べ遅かった事もあり
年齢で出来る出来ないの括りをされることが
本当に嫌だったこともありました。

現場スキルがあれば、どこへ行っても仕事は出来ますが
スクールを出ただけでは仕事がないのが現実でした。

その悔しさがエネルギーになってしまい

母親は50代でも頑張ったんだ。35歳の限界が何だ!!
アルバイトでもいいからとにかく美容の仕事につこう!!

と決心をします。

その数か月後には、
契約更新の有無を決めるときでしたが更新をせず

カメラマンを辞めて、
派遣社員で募集していたある化粧品ブランドへ応募して

そこで美容部員となります。

36歳~38歳:スキルアップと介護の両立が始まる

美容部員になり大好きなブランドで働く事が出来たため、
そのことは今でも誇りに思ってます。

そこのブランドはなくなりましたが
募集の際にかなり迷っていた背中を押してくれたのは母でした。

いいから何でもやってみなさい。

その一言で決めました
しかし背中を押してくれたその数週間後、
母は発作を起こし脳梗塞から心筋梗塞となり
2020年3月までの亡くなるまで、寝たきりの植物状態となりました。

美容部員となったスタートから
母の介護が同時に始まります。

運よく入院出来た母ですが、
10年間いつ何があるかわからない状況で過ごしたため、
私の精神状態が安らぐことは亡くなるまでありませんでした。

美容部員として働き入社後2年。

ブランド自体がライセンス契約と言うものが終了し、
契約が更新できなくなった事で
転職を余儀なくされることとなりました。

さらにスキルアップの為に、ブライダル施設で働くようになります。

家族のことで時間に追われながら、働いていた毎日
業界自体も未経験から働き始めました。

そして、入社して初めての担当する
ご新婦様にメイクをした後思った事
「もっと上手くならないとだめだ・・・」

率直にそう思いました。喜んではもらえたけど、
自分の中で思い描く理想の仕上がりではなかった。

これでいいのだろうか、
単にメイクのできる人になってしまう。

ヘアメイクですって恥ずかしくて言えない。
と思ったことがきっかけとなり、

札幌のメイクスクールの先生に相談し、
もっとスキルアップするために

東京に本校がある「嶋田ちあきメイクアップアカデミー」の
ライセンス試験にチャレンジしたくなったことを
問い合わせしたことがきっかけで

私の運命を大きく変えた日帰り東京通いと
介護の両立が始まることとなります。

38歳~40歳:唯一の自分の時間は勉強の時間

代官山にあった嶋田ちあきメイクアップアカデミーの
授業を初めて受けた時の衝撃は、今でも忘れることはなく、
生徒の皆さんのあまりのレベルの高さに驚きました。

自分のメイクは商品の販売用のためのメイクだったことに愕然とし
もうメイクをやめようかと思うくらい落ち込みました。

飛行機にまで乗ってきたのに恥をかきに来ただけだった・・・

帰る支度をしていた私を引き留め声をかけてくれたのは、
当時の事務局のあるスタッフの方でした。

「よければ時間があるときレッスンにきませんか」
と声をかけてくれました。

それから月に2回から1回。
LCCを使って東京に受講しに行くようになります。

当時家族の支援がない中で
母の入院費のやりくりもありましたが、

どうしても東京に授業を受けにいきたい一心で、
必死で働いて費用を捻出し、飛行機に乗って通ってました。

東京に行く時間、母の病院にも様子を見に行く時間。

夕張で一人暮らしをしていた父が札幌に通院の時は
送り迎えをして病院に連れて行く時間にも追われました。

東京に勉強をしに行く時間だけは、誰にも邪魔されない

たった1つの自分だけの時間でした。

一流の方は惜しみなく教えてくださるし、
教わる人によって
伸びしろも変わってくることも知りました。

本校の生徒の皆さんを拝見した際に感じた、
レベルの高さの違い。

だからこそ飛行機に乗ってまで、
時間を作ってまで行く価値があったのです。

41歳~42歳:自分の人生を生きる為に北海道を離れる


東京に通うようになって2年後に、
今度は父がもう1人暮らしさせるには健康上限界がきて、
病院に入院したのち家に帰ることなく施設入所が決まりました。

両親ともに病院と施設か・・・となった私は
一旦精神的に休みたくなり
ブライダル施設の退職の道を選びます。

父も施設に入るまでは本当に大変でした。

ただその頃1番思っていたのが、
どうにかして自分の人生を生きたいと願ってました。

家族は大事だけど、それと自分の人生は別です。

お金も時間もあまりにも家の事で使い、
このお金で何かしたいと願っても

入院費や施設代など色んな事に使わないといけない中で、
自分の気持ちを優先してこなかった。

たった1つ譲らなかったの事は、
技術をブラッシュアップし
東京へ行った事でした。

ブライダル施設を辞めた少し経った頃に
メイクアップアカデミーから
「卒業生対象コース」の案内と書かれた、メールが来ていました。

また4月から単発のレッスンに行くし、
連絡してみようと1本の電話をかけます。

4月からのスケジュールも確認し、電話ついでに
「メールで来ていた卒業生対象コースって私も受講できますか」
とおもむろに聞きました。

電話をしたのは確か3月で開講は4月からです。
「大丈夫です。春から来てもいいんですよ」
と言われて間髪入れずに

「春は難しいから10月から行きます!!お願いします」
と言って電話を切りました・・・

切った後思いました。

学費・・・引っ越し代・・・入院費・・・
お金どうするの?両親と離れることもどうなるの?

色々思いましたが、
行きますと言ったからにはすぐ行動です。

半年間記憶がないくらい働き費用を捻出しました。

いよいよ関東へ引っ越す際に家族には
これからは自分の事を最優先させてください。

と言って気持ち的には、
半分逃げるような気持ちで出てきました。

周りの方も応援してくれた人、冷たい目で見ていた人
「おばさんなのによくやるな」まで言って人もいました。

その時は傷ついたけど、
誰かが変わって私の人生を歩むわけではないのです。

とにかく東京へ行って授業を受けたくて
楽しみでした。

両親の事を思うと離れることは本当に辛かったですが、
自分の時間がなく家族の事を優先してきた。

誰のものでもない自分の人生を、
今取り戻さないとだめになる

と思い私は北海道を後にしました。

今度は関東から北海道へ帰るようになりましたが
札幌にいた頃よりは
自分の事が出来る時間が増えて幸せでした。

自分の人生を生きていきたいと、
初めの1歩を歩くことにしたのです。

42歳~44歳:コロナ禍は自分の刀を磨く時間

念願の嶋田先生からの指導や
講師の先生たちと過ごした半年は宝物です。

今でも先生たちからは「技術」
という名の宝物を授けてくださったので
一生大切に磨くことが恩返しです。

卒業生と講師の先生とした仕事・舞台の仕事。
20数年ぶりにアシスタント業を経験し
かなり貴重な経験でした。

時々同じ年齢の人はもう立場があったり
、スキルがあって色んな仕事してる中
自分は何をやってるんだろうと思うこともありました。

段々いろんな仕事をするようになり
30代後半から漠然と思っていた
残された職業人生について真剣に考えるようになりました。

一般的に65歳までが定年として、あと何年この仕事をしているかな
それを長いと感じるか短いと感じるか。

好きな仕事をするという夢は叶った。
それをどう還元していこうかと思いました。

メイクレッスンもこの頃からやらないのかと、
色んな方に言われました。

その時には「やり方を教えるところは沢山あるし」と・・
決心に至るまでの決め手がなかったんです。

そして、コロナウイルス感染拡大と言う、
未曾有の事態が起こりました。

仕事が毎日なくなっていく異常な状況。

コロナと言う状況は、
新しい価値観や働き方を考えさせてくれた出来事でした。

私自身も自粛を利用し、受験資格があったのにもかかわらず
美容師を辞めてから24年間先延ばしにしていた、

美容師免許取得の勉強をし合格します。
美容師国家試験の勉強もオンラインを活用し

始めは不安でしたが出来るじゃない!!と自信になりました。

多くの美容業界の方も自粛期間をインプットの時間と考え、
SNSやオンラインで技術を磨く時間にする。

そういう気持ちで発信をしていた
素晴らしい全国のスタイリストさん達から、

多くの刺激を受けました。

誰もが自分の技術と言う刀を磨く時期。
今振り返るとそう感じます。

様々な発信を見ていて、
やり方や場所の縛りがなく自由にやれるんだと感じ

メイクレッスンを始めよう、
そして何か他と差別化できないかと思い始めます。

この先の事を考え始めコロナの状況も様子みていた時期。

また一通のメールが来きます。
それが起業へのきっかけと至ります。

44歳~45歳:起業のきっかけはHANANINGEN®

有難いことに、札幌にいる頃よりも仕事内容は充実し
沢山の現場に行かせていただいたおかげで
、経験も積む事が出来ました。

この2年近く状況が落ち着くまでは、美容の仕事は3割

ほかの派遣の仕事で生活費を賄うようにし、
まずは生きていくことが最優先となりました。

そんな中で、2020年春に母が、
2021年秋には父が亡くなりました。

色々あった時期ですが、2020年の年明けに

起業のきっかけとなるお知らせが訪れます。

札幌発祥のHANANINGENと言う撮影プロジェクトから
ライセンス募集のメールが来ました。
その時は第4期生の募集です。

HANANINGENとはお花を愛する心づくりがコンセプト。
頭にお花をあしらって撮影をするプロジェクトになります。

その想いに賛同した方が研修を受けて、
希望の地域で活動できるようになるための研修のお知らせでした。

HANANINGENの撮影自体は、
札幌にいた頃に撮影をしたことが数回ありました。

ライセンス研修の同じ内容のメールを3回は見ていたはずが、
その日に限って

やらないといけない気がする・・

と根拠も理由もなく直観力だけを信じて、本社と連絡をとり

3月には研修・5月には千葉で活動できるようになるための
ライセンスを取得することになりました。

HANANINGENの活動をすることは、

今までの経験がすべて生かされる活動ができる。
これまで撮影現場にいたこと。

ヘアメイクしてきたこと。
点と点だった職業経験が円になると思いました。

私自身がHANANINGENの体験をしたころは、
親の介護に追われていた時間でした。

気持ちが疲弊していた当時、
花に囲まれ穏やかな気持ちになれる。

ヘアメイクの仕事上
、撮影をされる側になる機会はほとんどないため、

自分が撮影されること自体
「非日常」を提供してもらった気持ちになった。

出来上がった写真があまりに綺麗だったこともあり、
本当に嬉しかった・・

忙しく日々を送る皆様へ「とっておきの非日常」を
私自身も提供したいと思い立ち、
起業するきっかけとなったのです。

またHANANINGENの活動と同時に、
ヘアメイクとして出来ること改めて考えました。

私自身も40代までいろんなことを経験してきました。

本来もっと輝くような人生迎え、
スタートするのが40代です。

そこで同世代の方へ向けての、
メイクレッスンの立ち上げとなります。

45歳~:自分自身と向き合い深く知るレッスン

沢山の現場に行って年齢関係なく、
多くの女性にあってきて思ったことがありました。

「美しさ」に苦しむ多くの人と出会いでした。

「どうせ自分なんて」「もう年だから」と
自分の美しさを初めから諦めてしまう人。

自分の欠点をカバーすることばかり考えて、
美の追求で自分自身を傷つけている人。

美しさの裏側にある人の痛みや苦しみを
うかがい知ることになりました。

「美しさ」って、何なのだろう?
私ができることって、何だろう?

色々な立場から「美しさ」を見つめ直して思ったこと。

自らの欠点をどうにかしたいと思う気持ちは、
美容のプロである私にとっても共感できるものです。

何もかもが完璧な人は、ひとりだって存在しません。

欠点も含めてまるごと、自分を愛して胸を張って、
日々を生きているその生き様こそ美しさの根源です

もう一度自分を見つめなおし、
人生を丸ごと愛せる自分になる

そんなメイクレッスンがしたいと思い立ちました。

メイク技術だけ教わるだけは、
終わった後魔法が解けたかのように、
いつもの生活に戻ってしまいます。

良い話を聞いただけで終わらないようにするには
どうするか。

それにはしっかりと自分の心にも向き合ってみる事からです。

私自身も振り返ると、家庭は裕福ではなかった。

だからと言ってわがままを言い親に駄々をこねてまで、
何かをしてもらいたいわけではありませんでした。

誰かに与えて貰った幸せではなく

「自分が自立すれば自由になる幸せがある」
と信じて生きてきました。

また小さな頃家事をする母を手伝った時、母が喜ぶ姿を見て

誰かの役に立つことで、私自身満足し幸せを感じる事を知り、

それをヘアメイクと言う仕事を通じ叶えてきました。

皆さんにも過去のあなたがいて、
色んな決心や選択をして今のあなたがいます。

見た目を変えたい美容の悩みだけではなく

その後の人生も輝くようなプロジェクトにしたい。

なりたい自分になる答えは「自分の中にしかない」のです

正しい美容技術と知識・
自分に似合う色や骨格に合ったメイク法を知る。

そして色んな事を頑張ってきた自分人生と真剣に深く向き合う60日。

それら全てをパッケージした

パーソナルメイクレッスンの誕生させようと決心に至りました。

最後に:これからも一生をともにする自分のために・・

こうして自分の人生を振り返ると色んな事がありました。

この年齢になると私自身は家族の事でしたが
お子様の事で悩む事や、夫婦関係の事、

体力的には老いを感じるようになってきたことは否めません。

ただ若い女性にはない最高の武器。

大人の女性は

生き様そのものが自身を輝かせる一番の秘訣でもあります。

どんなことでも悩みの答えは自分の中にしかないし
過去の経験から
自分を幸せに出来るのは自分だけと改めて思ったのです。

この先の人生においてどんな年齢になっても今の自分が最高!!

それって無敵ではないですか?

長い時間頑張ってきたんです。

どんなに今のあなたが色々なことはあって疲弊した時間を
過ごしてきたとしても自信がなくても

見た目にも心にも

年齢を重ねてきたことが
しっかり刻まれていることが最大の魅力。

ただそれに気が付いていないだけです。

私にできること。

皆さんの愛おしい人生を見た目から変えて
自分に似合うものを知り

何より今までの自分を振り返って、悪いとことも
良い所も丸ごとその人生を愛おしく感じてほしいから

この先の年齢を重ねても
自分を知っていれば怖いものはありません。

その応援をヘアメイクを通じ提供します。

必要なのはありのままのあなたで十分です。
これからも自分を大切に生きようとする
気持ちがあればいいんです。

始めは自身の為にしたことが、
自分の心も深く知ることで

いつも機嫌よく明るく生きることに繋がり
周りの人をも最高に幸せに出来る人になります。

これからも一生をともにする自分のために・・

皆様自身や大切な人の人生を豊かにする
未来を価値提供すべく、日々私自身も鍛錬していきます

YUMI